藁しべの絵画
M画廊
2017年9月17日(日)~10月7日(土)









「藁しべの絵画」

かつて西洋の近代への転換が、東洋という異文化との出会いに一因があったように、異質との差別化が新たな状況への書き換えの契機となった。今日には、その考えによって成り立った「大きな物語」は終わった、とされる。

中心性の喪失は、表現の自由を獲得する風潮となり、美術は裾野を広げ、横断的な可能性への結実をみせた。日本においても美術の特権性の解体が進む中、あらゆるのものが等価に混在する状況は、積極的に「新しいジャポニズム」という言葉に歓迎されてきた。

かつては傍流とされた異端が、むしろ自らの特異性を主張し「小さな物語」として主流との差異を再構築する。この今日の傾向は、ポストモダンと呼ばれる脱中心主義の新たな動向を担う一方で、過去の差別化はその表裏が裏返るように現代のグローバル化いう形に扮し、個々への誇張として細分化されたとみるべきではないか。

この過去の中心との対立を基軸とし、反転した状況として機能する現代の構図は、かつての危うさを継承すると同時に、不可避な文脈の本質を潜在的に示唆しているとも言える。亜流という局地的なレッテルを引き受け続ける限り、今日の呪縛のように、滑稽な説話としての美術の立ち位置も顕在化し続ける。

このような状況を省みるとき、私は、自虐的に無心するような方法や対処ではなく、もっと俯瞰的な視点や冷静な判断で新たな可能性を追求したい欲求がある。表現手段の限界や飽和を理由に、このような状態が浸透した時代であるからこそ、純粋に表現の新しい地平を手にしたい。

変化を得ることは、これまでの安定を手放し未知なる可能性を掴むという、リスクを伴う行為である。過去の画家たちが、聖と俗を併せ持つ美術の賭けを前に、ある者は破れ、ある者は勝ち、歴史が紡がれてきたように。

今日、美術の物語も大小を含めた新たな再読を求めたいとき、一本の「藁しべ」が、その訪れた状況の変化に伴い、その価値を変動していった日本の昔話に奇妙に心を惹かれるのだった。絵を描くことは、色彩と筆致の変転の中で、瞬間の吉凶を掴むような普遍的な原理を持つ行為と言える。

今回、この今日の感触と、表現の原初に立ち返りたいという私の態度を代弁するものとしても、「藁しべの絵画」と題し、展示を試みたいと思う。

2017年8月 門田光雅


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